白雲の道

[No.25]古代日本の美

Date:2003年09月02日(火)

9月2日(火)天候晴れ
今までに中国の気の科学やインドの瞑想の科学、日本古代の科学などを体験から検証してきたが、最も心を打ったものは古代日本の精神の高さだった。
インドは物事の本質を貫く深さを持っているが、あまりにも哲学的でおじいさんのような弱さを感じる。
中国はなぎ倒すような強さは在るが、そのパワーを売り物にしているようだった。しかし日本刀に代表される日本の古代の叡智はその切れ味とその美を超えて全てのレベルに深さを感じずにはいられなかった。一瞬にして一刀両断する力を持ちながら静けさを感じさせる美。それが古代日本の特徴だ。
私は宗教に関してあまり興味がないが、だからといって宗教心がないわけではない。日本の古代に持っていた叡智は宗教ではなく生き方そのものであったがために宗教に入門しなくとも理解する事が出来る。信心する心ではなくても宗教心と科学的な目が在れば十分だ。
たとえば八百万の神という考え方は日本独特のものであるが、それは経典がないことを示している。神や教祖様が一人であると考えるならそこに経典や組織が出来るだろうが、多神教では経典のようなものは出来ない。
それがもし宗教が生まれる前の生きている全ての人が神々であるという考え方なら教えなど在るはずもない。
ではそこに在るものは何だったのだろうか。
それは目には見えないが無意識に在る力の法則だ。その法則を知らずして無意識の世界を一歩も意図的には進めまい。
その法則の初歩的なひとつを提言してみよう。
それは無意識を動かすものはイメージであり、イメージには位置があるということだ。例えば飴玉を舌の上にイメージしたとする。そして今度はその同じ飴玉のイメージをただ空想してみる。このときの違いは何んだろうか。
それは無意識に及ぼす力が違う。位置を口の中に決めたときは舌があたかも実際の飴玉を感じているかのようにくつろぐが空想ではそうはいかない。つまりイメージを意図した無意識的な力に置き換えるためにはイメージの位置が必要だという事だ。
夕方遅くなってFさんが来た。Fさんは.トランス技術のトレーニングを2年前から続けている20代後半の女性。
軽いバランス調整とトランス技術のトレーニングが終わった後コーヒを出して雑談。
彼女は最初、心理的な相談に来たのだが、徐々にイメージと現実の間に何かあることを感じ取ってイメージやトランス技術をトレーニングするようになった。
どうだい最近の周りの状況は。はい、最近いつのまにか面倒を人にかける自分から逆に面倒を見る事が多くなって時々泣けてきちゃいます。ここ2年ほどの間に彼女の環境は大きく変わった。別れや出合い、仕事、住居の移転など聞くだけでもめまぐるしい。
しかし最も変わったのは彼女自身だ。今の彼女の能力はかなり高い。しかし、彼女はまだ人には使わない事という約束を守っている。自分を磨く事に精いっぱいですという謙虚な気持ちも始めから変わらない。そんな中彼女の周り人や出来事に昔の自分を見ているような気がしているのだろう。
私は思った。日本の女性は古代の日本が持っていた深く研ぎ澄まされた力を持ちながらも静かに見守る大いなる力を継承しているのかもしれないと。
それはここに来ている多くの女性にも言えることだ。ならば本当に力を持つべき人たちは彼女のような人たちではないだろうか。