白雲の道

[No.29]観る者と観られる者

Date:2003年09月06日(土)

9月6日(土)天候晴れ
西洋の科学は物事を客観視する事からが始まっている。それはそれで正しい事だと思う。しかし、最近その常識が同じ西洋の科学によって破られようとしている。客観的に観察しようとしても正確に観察で出来ないものを発見したからだ。それは量子といって物理学の最先端を行く量子力学の世界だ。
なぜ観察できないのだろうか。物であるなら観察出来ないものはないはずだ。それはこのように言っている。
観察した瞬間に何か他のものに変化してしまう。それも観察する人や態度によってそれは変化し、同一ではない。
それもそのはずだ。それは実際のところ物の最小単位である量子といっているが、それは物ではない。このポイントが古代日本の科学の接点だ。
より簡単に説明してみよう。
例えばある女性を10人の人が観たとする。そのうちの半分の人が美しいと思いながら話をしたとする。だが後の半分はなんとも感じないでビジネスライクに話をしたとしよう。どちらが彼女を美しくするだろうか。答えは誰でも同意するだろう。
彼女は美しく観察されたものによって美しく変化する。この事を量子力学は最先端の知性によって証明した。そんな事はちょっとした直観力があればあたりまえに知っていた事だが、西洋の科学はなぜかそれを無視していた。
では病気に関してはどうだろうか。ある病弱な人を10人の人が観たとする。そのうち半分の人が病人だと思って話をしたとする。後の半分は健康な側面を観ていたとする。どちらがその人の病気を助長したか。またどちらが健康な方向にその人を導いたか。それは火を見るより明らかなことだ。
ここで無意識の観点から更に何が起こるかと言うと病気だと思って接した半分は同じ病気の側面を自分に助長する。逆に健康な側面に観察の焦点を合わせた人は自分の中に健康な側面を育てる。ここでは、どちらにしてもひとつの観察が二つの変化を引き起こしていないだろうか。
観察する者と観察される者に同じ事が同時に起こっていることになる。同じ事を量子力学が量子のレベルで証明している。
古代日本の科学はなぜ和の精神を育てたのかと言うとひとつの愛と力に満ちた人の観察が二つに、二つから徐々に無限に向かう事を知っていたからだ。
彼らはこの事実を知り、この観察するものと観察されるものの中間点のすばらしさについても知っていた。それはトランス意識状態の事だ。このトランスの技術は催眠とは異なりその重さがない。なぜならイメージの展開であり、言葉の繰り返しではないからだ。
今日の午前の終了近くなってやってきた架空の人Dさん。彼女は今まで自分に運動能力が多少でもあると考えた事はない。その為かいつも年老いた人のような歩き方をしている。しかし知性は高い。この歩き方を変えたいと思ってここに来たわけではないが何かあるに違いないと思って彼女のトラウマを調べてみた。
彼女は生まれながらにして意識が足のあたりには少ない。そのトラウマを過去生に移行して調べてみたが同じだ。私の思い違いかなと思いながらもその前の前世、その前と追ってみた。4世代前の生に焦点を当てたとき急にその束縛に近いトラウマがない。
3世代前に戻りそのトラウマの始点を見つける。その始点に焦点を絞りそのトラウマをトランスの技術を使って軽減した。
治療後、彼女は足の周りのもやもやが、なくなった感じとにっこりとして言った。私の感じも同じだ