白雲の道

[No.41]それで十分だ

Date:2003年09月20日(土)

9月20日(土)天候雨
インド産の最も軽く丈夫なシルク製のスカーフがふんわりと舞い落ちている。その下に名刀と言われた正宗がその青く光を放つ刃先を上に向けて置いてある
そのシルクがその刃先に触れるか触れないかのうちにそれは音もなく真二つに分かれてゆくがそのシルクでさえ気がつかないほどにそれは静かだ。その名刀正宗は何もなかったかのように刃先を上に向け同じようにその青い光を放っている。
古代日本の伝統はいつもこのように美しい。この静けさと美の中にすさまじいほどの実質的な力が息ずいているが、これは昨日説明した女神の特徴だ。静けさと美の間をすり抜けるようにある実質的な力が通ってゆく、この実質的な力は切れがいい。
その切れの良さは未来に対してあせりもせず、過去を引きずりもしない,そのために今と言う瞬間に完璧な事をやってのける。それだけで十分なのだ。
この正宗を造った人たちは戦士ではなかったかもしれないが、自分自身に対しての戦士ではあったと思う。その無名の鍛冶師の顔は火の粉でぼろぼろになりながらも刃先を自分に向け自分自身をも砥いでいたのだろう。
そしてこの世界に類を見ない名刀が完成した。その時同時にその鍛冶師の中にもある完成が生まれる。観る者の中に観られるもの、つまり世界に類を見ない完成が自身の中に生まれる。それで十分だ。
古代においてはこのような名刀さえおそらくは必要のないものだったと思う。なぜなら彼らの意識は直接自分自身に向けられていたからだ。その中で創造されたものは世界に類を見なかったであろう生きた神々の世界。同時に自身の中にその神々が創造される。外の世界は歴史に残ってはいない。しかし内側は観る者として残る。それだけで十分だったのだ。
私たちの文化はつい最近まで雄弁は銀で,沈黙は金であると言うところがあった。いつのまにかその風潮が消えてしまったが,これは雄弁は脳を示し,沈黙は女神の座である小脳を指していたのだが,この沈黙の価値に気がつかないほど無意識の力を忘れてしまったようだ。
無意識の力を知らずして沈黙してもそれは西洋から理解されないのも無理はない。
午後遅く架空の人Gさんがある期待を持ってやって来た。以前完全なる自由それはヴィジョンで登場してもらったGさんだ。
軽いバランス調整とイメージとレーングの後雑談。
先生、この前はコーヒをご馳走様でした。これお返しに持ってきましたと言ってちょっとしたお菓子を持って来た。じゃまたコーヒでも飲もうかと言うとはいとニコニコしている。
コーヒを飲みながらどうだい。この前のやさしい人というビィジョンは。何となくですが,いいみたい。そうかそれじゃ良かった。初めは何となくで十分だ。
そうこうしている内に人生の中にそのビィジョンを観るようになる。そうだといいんですが。
先生、今日はもうひとつお願いがあります。明日面接の試験があるんですが,あまり自信がないんです。何とかなりませんか。どんな風に自信がない?何となくそわそわして集中できないんです。
分かった。この前のやさしい人にプラスして積極的でやさしい人と言うイメージをしてビィジョンを作ればいいと前回のように行なってもらった。そして後はそのビィジョンに任せるように勧めた。積極的でやさしい人を試験官の中に観るならその試験官もこちらにそのような人を観る事になる。そうなるとうまくいくに決まっている。彼女は不安を浮かべながらもにっこりと笑った。
私たちのするもっとも大きな項目は何をどうしたいかを明確にする事だ。そしてその事を無意識に置き女神にその道を開ける。食べ物を食べたらそれを身体に任せるのに似ている。もしいたずらに心配すると無意識も心配する。