白雲の道

[No.52]無意識からの力

Date:2003年10月03日(金)

12月3日(金)天候晴れ
観る者と観られる者、観るものや観る出来事はいつか観る者の中にそれを現実化する。観る事により観る者の中に同じようなものを創りだすからだ。
それは見ることではない。観ることによってだ。このところは微妙だが大切なところだ。見ることは能動的なことだが,観る事は受動的なことだ。
この受動的な観方は潜在的な力が眠ると言う無意識の世界と接点を持つことになる。目の後方、脳を越えた所、そこに無意識の力が眠っている。その女神とも言うべき無意識から繰り出す力は自分を超えて突き進む実質的な力となる。
ある小学生にも満たない少年が親に連れられてリーグ優勝がかかっている野球観戦に出かけた。その少年は幼いながらもその試合を感動して観ている。
ある別の年頃が同じ頃の少年が近所の悪がきに取り囲まれ、いじめられている。その少年はいじめられながらも自分をいじめている彼らを泣き出したい思いをこらえて観ている。
両方とも見ているのではない、観ているのだ。
この観る事により将来において何が起きるか。子供の頃私たちは見ていたというより観ていたのだ。大人になって観る事は見ると言う部分的な見方になってゆくが,子供の頃は体全体で観ていた。それは良いにつけ悪しきつけ無意識の力を引き出す事になる。
前者の少年は時が経つに連れ無意識の中から野球選手になる力が湧き上がる。後者の少年も同じように無意識の中からわきあがるが,悲惨にも怒りが沸き上がる。
同じわきあがるでも湧き上がると沸き上がるでは違いがある。前者の場合は感動であり,後者の場合は抑圧されたエネルギーだからだ。
しかしここに共通したものがある。それは無意識からその少年を越えて実質的な力が体に向かって突き進んでくる。その力は無意識からやってくるがゆえに幸か不幸かどちらにしても力強い。その力は往々にして子供の頃に観た現実よりも大きなものになる。
なぜ等分ではないのか。それは彼らの観るものは現実よりもイメージを観ているからだ。言い方を変えると現実は不幸であろうと,いじめられていようとそこに愛を見るなら愛が現実化することになる。しかし小学生にも満たない子供にはそれは難しい事だ。
午前の遅く日誌の月と火星のランデブーで登場した北海道の親戚のようなFさんがやって来た。
軽い鍼灸治療の後、休憩。
先生、私ははりが合っているんですかね。はりをするとスーっとからだが軽くなるのが分かるんですよ。そうですか。きっとそれはFさんの行いがいいからですよ。
彼女は今年85歳だが,庭の周りに花を植えたり草をむしったりして忙しくしている。子供夫婦が同じ敷地に家を建てて暮らしているが,その庭までみんないっぱいに花を咲かせてきれいにしてしまうらしい。子供は全然やらないんですが、わたしがみんなやるんですよとうれしそうに言っている。
彼女の口から愚痴は一切聞いた事がない。きっと辛い事もいろいろ不満もあると思うが,いつもこのように幸せに結びつけて来たのだろう。身体は怪我や手術の後遺症で辛いものだ,彼女はそれを見てはいるが、観ているものは幸せだ。その観ているものが現実になって幸せを創って来たに違いない。
もし、現実がどうあろうとその中から幸せの種を無意識と言う広大な畑に植え続ける事が出来るなら,わたし達はFさんの庭のようにもっと沢山の幸せの花を咲かせる事が出来るのだろう。そんな意味でFさんは女神のようだ。伊達に年取ってはいない。