白雲の道

[No.62]あれでもなし、これでもなし

Date:2003年10月15日(水)

10月15日(水)曇りちょっとした地震
私達は客観的な評価から自分の生きるエネルギーを創り出している。
たとえば,全世界が核戦争に巻き込まれこの地球上に一人だけ生き残ったとする。その人は裕福な美しい女性でテレビの人気者でもあったが、回りにも世界にも誰もいなくなった。
その場合,彼女は同時に自分の存在証明のようなものも失う事になる。なぜなら美女である事や人気者である事は客観的なことであり、お金に関しても客観的には意味があるが主観しか残らない今となっては自分が裕福であるという証明さえ出来ない。
その逆はこんな感じだ。
ある女性が知らないおじさんにきれだいねーと言われたとする。彼女は気にもとめないが、ちょっとはうれしい。
今度は同じようなおじさんだが,会社の社長にきれいだねーと言われた。今度はとてもうれしい。それだけでなく仕事がんばろうかなと言う気になる。
今度は好きな人にぼそりと一言愛しているよと言われた。彼女はエネルギーも愛も一気にあふれ出てくるのを感じる。
この時彼女は相手からエネルギーを得ているかに見える。しかし本当のところは自分の中からエネルギーが湧いてきた。エネルギーの法則として一方が与えたらもう一方は減少するという大原則があるが、誉めたおじさんや彼氏のエネルギーが減ったわけではない。
それなら始めから自分でエネルギーを活性してすごい生き方をすればいい。しかしそれはなかなか難しい。ではわたし達は人に評価されたり、生きがいを見つけなければ本来の力が出ないものなのだろうか。
この辺が今日の焦点だ。
太陽が燦燦とした光を周りに惜しげもなく投げ出しているが,もし、周りに地球や火星のような惑星がまったく無くなったとするとどうだろうか。太陽はそれでも光を出して輝くのか。それとも太陽であることを辞めてしまうのか。
答えは太陽はその瞬間に太陽であることを止める。しかし太陽の星そのものはそこに存在している。それは世界に一人だけ残った人気者の美女がその瞬間に人気者の美女でなくなるのと同じだ。自分で人気者の美女だと思い込んでもその考えそのものが時間とともに崩壊する。しかしその女性は同じように存在している。
では太陽のように輝いた美女として生きるか。ただの星であるようにただの女性として生きるのか。客観を大事にするか。主観を大事にするか。
古代の日本の観点はそのどちらでもない。かといって風見鶏のようにあっちを向いたりこっちを向いたりするわけでもない。
午前の終わり頃、架空の人Oさんがやって来た。
軽いバランス調整とイメージトレーニングの後雑談。
彼は独身を貫いて停年を過ぎ、仕事一本槍で淡々とがんばった日々から解放されたが,毎日を淡々とするのに飽きちょっとした不安を感じている。
どうですか。最近の気分は,悪くはないが,何をやっても気力が出ない。やっぱり年かな。いやまだ年のせいにするのは早過ぎます。身体のレベルはおそらく平均より上でしょうから,まだ20年は生きますよ。そんなに生きる気力も自信もないな。かといって死にたくもない。
今回始めたイメージトレーニングは昔のような気力や生きがいをつくろうとしているのではないですが、もっと面白い事をやろうとしているんですよ。どんなものですかそれは。それを説明するとややっこしい事になりますが,ちょっと説明してみます。
それは波乗りに似ています。彼らサーファーは波が来るのを待ってそれに乗ろうとします。波を創ろうとしている分けでもなく,波に乗って楽をしようとしているわけでもない。その中間でバランスを取るために全身の感覚を研ぎ澄ましている。
それは生きている感じが最もある瞬間かもしれない。同じような事をするんです。まったく分からないな。
今は無理もないことです。しかしそのうち分かります。波は今イメージを置いている小脳、つまり無意識からやって来る。Oさん何が何だか分からないながらもにっこりして帰っていった。