白雲の道

[No.77]虚構と現実の狭間

Date:2003年11月01日(土)

11月1日(土)天候晴れ
命あるものはいつか死を迎えるが,インドの和尚ラジニーシは言った。死は最大の虚構であると。虚構とはフィクションということであり、空言と言う意味だ。
観る者と観られる者の関係で観る者は死の中にただ入ってゆく。それはちょうど夢を見ている時、現在の自分と言う背景がぼやけながらもその夢を観ている者がいる。それは身体を越えて夢の中にゆく者。それは観る者だ。その同じ観る者が死の中に自我を超えてただ入ってゆく。
ならば,自分の存在を観る者とした時、死はない事になる。そのような観点から言うと確かに死はつくり事だ。観る者はその事で何も失う物はない。
それは鏡が観る者だとすると鏡の中に映ったものが消えたり,変わったりしたところでその鏡が失うものはないのと同じだ。
もし、そのようであるなら眠るたびにこの人は今、目の前で死んだと騒ぐような事なのかもしれない。眠りの中で夢を見ている本人からするといかにも騒がしい事だろう。
しかし確かに観る者としての死はないのかもしれないが、その一方で大切な人や動物が悲惨にしか見えない状況のなかで苦しみ力尽きるのを見るのは忍びない事だ。後に残った者の中には死は歴然とある。
ではこの二つに折り合いはつけられるのだろうか。主観で見ると死は虚構だ。しかし客観的事実として死は在る。このはざまで人は右往左往してしまうがこの主観と客観を包み込む視点があるのだろうか。
それはある。このようだ。
その人の死は本当のところその人以上に周りの心中にある。
その人自身の主観から見た死は虚構かもしれないが、その人を失った時の喪失感は周りの人の現実に在る。なぜだろうか。これは心理学的にも大きなところだと思う。
私たちの現実は自分が創造しそれを保持していると思っている。しかし、それは違う。私たちの現実は周りの人によって創られ保持されている。観る者の現実は観られる者の中で保持されているのだ。
例えば,ある女性を周りの人は別になんとも思っていなかったが、彼女を最も美しく大切な女性だと心の中で思い、そう彼女に言っている男性が死んでしまったとする。その時その女性の中の美しく大切な女性は同時に死ぬ事になる。その人がいなくなった後にそう言って観てくれる人がいない。
その女性の中の美しく大切な人はその男性と共に消えてしまう。それは現実的な事ではないだろうか。だとすると自分の現実は自分の中に在ったのではない。
ではこのように折り合いをつけることが出来ないだろうか。死は死の中にあるのではなく。残された者の心の中にあるだけだ。
午後あの元気のいいスポーツウーマンがやって来た。彼女はいつになく元気がない。どうやら15年生きていた愛猫が車に轢かれて死んだらしい。
軽いバランス調整とイメージトレーニングの後雑談。
いつ轢かれたのですか。昨日の朝トラックに轢かれたのですが轢いた人が友人の女性でその人がショックでもう運転できないと落ち込んでしまって、複雑な気持ちです。
それは持っていく場なくなるね。私も5年程前、この治療所にも連れて来るほど可愛がっていた猫がちょっとしたミスで死んでしまって本当に辛かった。その気持ちは分かります。
わたしの中の大切な何かが消えていくような気持ちです。そうでしょうね。その分これから自分の中に新しいものを創造しないと辛いかもね。
はい。でも今度は自分を創ってみようかな。それはいい。自分自身の創造には死が存在しないという事を知っての決断かな。その意味何となくわかります。女神の卵は観る者の創造は観られる者の創造と違って死がないことを直感で理解したらしい。