白雲の道

[No.78]観る事の不思議

Date:2003年11月02日(日)

11月2日(日)天候晴れ
観るという事は本当に不思議な事だ。観るという事はその背後に観る者がいるということだ。鏡が観るとするなら鏡の中に誰かがいる事になる。しかし鏡の中には誰もいない。
人が観るとそこに誰かがいる。夢の中で観ている者がいる。その観ている者は自分の姿かたちを忘れているが,観ている事が出来る。目を閉じているわけだから肉眼で観ているわけでもないのに観える。
科学者は脳が反応して見えるのだという。信頼のある科学的な報告として脳のある部位に電極を差し込んで刺激するとある記憶が心の中に現れるという。だから観ているのは全て脳だと結論付けるが,ではそれを観ているものはどこにいるのか。
全ての情報がある本の中に収められているとする。しかしそれを観ている者は本ではない。同じように全ての記憶が脳の記憶細胞に収められているとする。しかしそれを観ているものは脳細胞ではない。
それでも科学者は言うだろう。脳細胞は記憶しながら観ているのだと。わからん話でもないが,それでは本の中の一つ一つの文字の後ろにへばりつくように脳細胞の背後に観る者がいるという事になる。
観る者はそれ程不自由な者ではない。ある意味では観る者はオーケストラ楽団の指揮者のようだ。ある時に現れてさまざまな楽器の個性を壮大な音楽に向けて指揮する。しかし、その指揮者が去るとそれぞれの楽師は方々にそれぞれの生活に戻る。
生があるとき指揮者は身体に留まる。しかし指揮者が去ると身体は自然である土に帰る。
指揮者は楽師や楽器の性質を知り壮大な音楽を夢見るが,楽器の寄り集まりではない。同じように我々は意識という壮大な観る者であるが,一つ一つの脳細胞のより集まりではない。
ここで注目すべき事がある。私たちには指揮がうまい人も下手な人もいるが,自分の身体や脳を指揮する事を考えていないなら、これは指揮どころではない。
指揮を始めたはいいが何を演奏するか忘れてしまった指揮者はまだしも楽器が指揮してくれる事を待っている指揮者はどうしたものか。それは間違いというより勘違いというものだ。
私たちの本質は脳や身体ではなくそれらを観る者で、その観る者は指揮する能力が生まれ持った性質であるという事に同意するなら観る者が活気づく事になる。
逆に楽器が自分であると考えるならお互いに指揮するのをいつまでも待っている事になる。
午後から月例の全次元医学の講習会に数名の歯科関係の先生達がやって来た。
講習会の後恒例のワインを飲んでの雑談。
今日の主役はなんと言っても九州からのI先生。沢山の情報をもってきてくれた。
免疫力を高める簡単な方法から始まって幼児の直感を高める天才教育、3Dアートを使っての視力を高める使い方、歯列の上にマウスピースのように乗せて使うテンプレートの是非についてなど,多くの話題が溢れるよう湧き出した。
その中でも面白かったのは幼児に点がいくつか描いてあるカードを見せ,その瞬間にその数を声で教える。また次のカードを見せその数を声で教えるという事を続けるとその幼児は成長するにしたがって瞬間的に数を数えなくてもその数を言い当てる視力を持つというものだ。
それは観るという能力が私たちの見る論理的な教育を超えてゆく可能性だと思う。I先生は自分の子供にも試しているそうなので将来が楽しみだ。
いつも聞き役でちょっと控えめなK先生はいくつかの重い病気を患った事があったが、それを不思議な程速く快復してしまった。その経験もあってか免疫力に興味があったらしい。試してみようとにっこりしていた。
最後まで残った技工士のI先生は今回講習会にはじめて導入した骨盤を駒に例えたイメージトレーニングでどれだけ握力が上がるか必死になって握力計を睨みながら調べていた。その効果を確かめて関心している。水泳全日本大会に挑戦する息子の為にもがんばっている親父の姿が見え隠れしていた。