白雲の道

[No.86]私は変わらなく在る

Date:2003年11月12日(水)

11月12日(水)天候雨
不思議な事に私たちの身体は成長し大きくなった。そしていつか萎んで行こうとするだろう。もう既に部分的に幾分かは萎んでいるのかも知れないが、その先には何が起こるのだろうか。
私は死んだ事はないからそれ以後の事はわからないが、類推する事は出来る。
ソクラテスは牢屋の中で弟子が見守る中、毒の入った食事を食べさせられて死んだらしい。その食事には毒が入っている事を看守からソクラテスにも知らされていたが、それを知ってソクラテスは恐怖に慄くどころか目を輝かせていた。
彼はその毒を食する前に弟子におまえ達はまだ死んだ事がない。私もまだ死んだ事はない。だから誰も死の事はわからないが、今私が死と言うものを私の主観から正直に皆に報告してみようと思う。そう言って興味津々の態度で毒を食し死に臨んだ。
ソクラテスが言う。毒が私の身体を息苦しくしているらしい。しかし私は何ら変わらない。それからも息を引き取る間際まで身体は苦しさの中で麻痺してきているが、私は変わらなく在ると言いつづけた。
彼が身体は意識から外れてゆくが死の最中でも私は変わらずに在ると言っている。
私達は夢の中でも観る者として居るのだから、身体を離れて死の中でも観る者として在ると思うが、夢の中では変わらない自分が居るとは言えない。だからその状態は夢のようなものではない。
ひょっとしたら普通の状態よりもっとリアルかもしれない。自分を感じる身体もそれを感じ取る脳もない分、世の中をくっきりと観えるのかもしれない。
しかし逆にいうと世の中や他人がリアルに観えるが身体がないから体験できない可能性はある。それが現実との違いかもしれない。それはこんな違いだろうか。
夢はある意味では空想だ。
身体を離れた状態は空想だけでなく現実をも観るが体験できない。
身体に中で生きている状態は現実を観る事も出来、見て体験もできる。
身体を離れた状態はおいしいものを食べたり、愛し合う事は出来るが味っての体験はできない。だから食べれば食べるほどお腹が空くという不思議な事になる可能性がある。もしこれが真実に近いものなら、何が体験して生きている価値なのだろうか。
ある人はその話を聞いて生きている今の内とばかり、どんどん食べ始めた。
ある人はその話を聞いて快楽主義に徹した行動に出た。
ある人は死んだ後、食べる事の執着を残すと空腹で苦しむに違いないと考え断食修行に出た。
ある人は自分の欲求を無私の愛に昇華するために見栄や外聞を超えた行動に出た。
ある人は引きこもりを止めた。
夕暮れ時が始まる頃、人形作りのMさんがやって来た。彼女は相変わらず、ここ何ヶ月か殆ど毎日のようにせっせとやって来ている。
軽い調整と進んだイメージトレーニングの後雑談。
どうだい。最近変わったことはない。別に変わりません。
彼女は不思議なぐらい、いつも話が短い。今までかなり変わったトレーニングをしているのだから質問の一つぐらいあってもいいようなものだが、これが今だかって一度もない。
いつも前日の日誌を彼女に読んで聞いてもらっているが、以前はあまり面白そうな顔は見られなかったが近頃では大きな笑顔で面白いと言ってくれる時がある。
私にはその笑顔がこの日誌のバロメーターにも私の日誌を書く糧にもなっているが、彼女はいつも言葉や虚飾を越えたところを見ているようだ。それが23歳の若さだが驚くほど頼もしく観える。