白雲の道

[No.87]叡智を拾い上げる者

Date:2003年11月13日(木)

11月13日(木)天候晴れ
もし夜中、山道で迷ったとしても北極星を見る事が出来るならそれを基準に、その迷いから脱却する事が出来る。
しかし星ぼしの中で北極星だけは地球から見て常に北向きにあることを知らないとするなら、同じ道を何回も歩きまわりその迷いから解放される事は難しいかも知れない。
私たちはみんな道に迷っている。しかし迷いながらもこれはと思うものをつかもうとしている。それは変らないものだと思うからだ。
ある人はお金と権力が全てであると結論し若くして人生の中心に置いた。
ある人は愛であると同じく若くしてその中心に置いた。
ある人は幸せであると
ある人は真理であると
ある人は自由奔放であると
ある人は何でも目の前にあるものをその中心に置いた。
しかし、だれも後ろの正面にいる者にその中心を置くものはいない。カゴメカゴメの歌の中でうしろのしょうめんだあれと言うのがあるが、その位置に正面を向いている者がいる。それは変らずしてどんな時も離れずにいる観る者だ。
ではその観ている者は具体的に私たちに何をしてくれるのか。その哲学的な考えと現実との間のギャップを埋められるのか。
その辺を簡単に説明してみよう。
以前日誌の中で、野球観戦で感動しているある少年と悪がきに取り囲まれていじめられている少年が成長してどのようにその観た思いが現実になってゆくかを説明した事がある。
その思いは陰陽の交合をしながら現実の方に移行したが、その様子をじっと観ている者がいる。
その者はそれを観ていて何をしているのだろうか。その者はその中の甘さや苦さを観てその中から叡智を拾い上げている。そしてゆっくり進化している。
その進化は何があっても奪われる事はない。それはソクラテスの言う所の変らない私だ。ではこのように置き換える事は出来ないだろうか。
私は観る者だ。それはこの刹那的な世界にいて多くの善悪を超えてその思いを現実にする。そしてこの世界を去る時その叡智を持ってゆこう。それは既に観る者としての私の中にあるなら失う事のない宝になる。
世の中も自分の身体も日ごとに変わってゆくが、しかし観る者としての自分自身は変わらない。であるなら観る者を基準に考えたらどうだろうか。
午後の終わり架空の人Gさんがやって来た。
鍼灸による調整の後雑談。
どうですか。はりは痛くなかったですか。思っていたより全然痛くありませんでした。本当に刺しているのかなと思ったぐらいです。はりを刺した後熱い感じがしたのですが、あの感覚は気持ちがいいですね。それは良かった。
先生、わたし先生の日誌読んで思ったのですが、先生の視点はどこか遠いところにあるあるよう気がするのですが、何処から観てるんですか。
それは私にとってうれしい事なのか、気をつけなければいけない事ないのか分かりませんが、私の観点から言うと、逆な気がしてます。私が観ているのは変らないものである北極星を見上げている感じなのです。
それとっても不思議ですね。先生は見上げていると言いますが、私には天から見おろして観ているような感じを受けるんですよ。
それは不思議な事だ。私にも良くわからない。